1945年8月、米軍によって広島、長崎に原爆が投下され、終戦後の1954年3月にも米軍の水爆実験によってマグロ漁船「第五福竜丸」が被曝し、日本は三度、被曝しました。
おりしも、1953年、アメリカが「原子力の平和利用」を訴えたばかり…。
アメリカは世界中から非難を受けました。
この危機をどう脱するのか…米国家安全保障会議は「日本に実験用原子炉を提供する」ことを提案しました。
米原子力委員会のトーマス・マリー委員曰く「広島と長崎の記憶が鮮明なときに、日本のような国に原子炉を建設することは劇的であり、これらの街での大虐殺の記憶から遠ざけるキリスト教徒としての行いである」…(ニューヨーク・タイムズ54年9月22日)。
さて、第五福竜丸が被曝する約2週間前に、初めて計上された日本で原子炉築造予算は…2億3500万円。
強行に推進していた中曽根康弘衆議院議員(後の首相)曰く、2億3500万円の根拠について「(核燃料となる)ウラン235の二三五ですよ(笑い)」(「天地有情 五十年の戦後政治を語る」1969年)。
米原子力戦略に従い、日本への原発導入に積極的に動いたのは中曽根氏だけはなく、当時、読売新聞社主で日本テレビ社長だった正力松太郎氏(後の原子力委員会初代委員長)も…。
新聞とテレビをフルに使って「原子力の平和利用」キャンペーンに打って出ました。
正力氏の腹心、柴田秀利氏(後の日本テレビ専務)は「日本には毒をもって毒を制するということわざがある。…原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的にうたいあげ」ることが必要だと提案した、とのこと(「戦後マスコミ回遊」85年)。
当初、「我が国の原子力開発がスタートした際には、我が国の原子力開発はすべて国産技術を基礎から培養しようとする心構えであり、原子力技術の育成計画もこの線に沿ってたてられていた」(「昭和31年版原子力白書」)けれど、1955年に「日米原子力(研究)協定」を調印し、「研究」用にアメリカが日本に濃縮ウランを最大で6キログラム貸与することとなり、日本は貸与される濃縮ウランを使用するため、アメリカから研究用原子炉の購入をすることになってしまいました。
そして、「濃縮ウランの受け入れは、小規模かつ長期にわたって低いところから自力で原子炉技術を養っていくという考え方を、海外(アメリカ)からの援助を取り入れて急速かつ大規模に行うという風に計画を変える大きな要因となった」(「昭和31年版原子力白書」)とのこと。
原子力の研究計画もないのに原子炉築造予算を計上し(54年度)、導入する炉型の判断もなしに濃縮ウラン受け入れを決め、炉を設置する研究所(原子力研究所)設立は最後になり(56年)、世界に例のない「逆立ちした研究のスタート」と指摘されたそうです。
こうした「逆立ち」はずっと続き、55年の研究協定は、58年に動力用原子炉の開発を目的にした「日米原子力協定」に置き換えられてしまいます。
この協定で、アメリカからの日本への濃縮ウラン提供量を増やし、最大で2.7トンを貸与できることを明記し、実験用動力炉が導入されました。
更に68年に調印された「日米原子力協定」では、日本で建設中または計画・考慮中の原発に、今後30年間必要なウラン235の量を明記し、その総量154トンを日本がアメリカから受け取ることが義務づけられました。
日本原電敦賀原発や事故を起こした福島原発もこの中に含まれています。
1967年4月に政府の原子力委員会は、「原子力の研究、開発及び利用に関する長期計画」を発表し、長期間にわたりアメリカ一国に頼ってしまうことは、望ましくない、と強調していましたが、未だに、日本にある原発54基すべてがアメリカで開発された加圧水型と沸騰水型です。
濃縮ウランも、今でも7割がアメリカの輸入に頼っています。
原子力安全委員会の「昭和62年版原子力白書」によると、日本の原発事業者がアメリカ以外からの濃縮ウランを混焼する場合、30%を上限にする契約を結んでいる、アメリカから制約が課せられている、とのこと。
更に重大なのは、1988年の日米原子力協定で、「核燃料サイクル施設」の建設をはじめ危険な計画が新たに動き出しました。
協定の付属書で、使用済み核燃料からウランやプルトニウムを取り出して再び燃料にする「六カ所村商業用再処理施設」や、使用した以上の燃料(プルトニウム)を生み出せるとした高速増殖炉「もんじゅ」などを列挙し、アメリカの同意が与えられています。
これは、アメリカ自身、技術的に未完成だとして再処理施設の運転は行っていないにも関わらず、一連の施設建設への同意は、日本を「実験場」にすることを意味しています。
こうして進められてきた原発の大量建設は民主党政権にも引き継がれ、2010年6月、管首相は、相電力に占める原子力発電の割合を20年後に50%以上にすることを想定し、最低でも14基以上の原発を増設する「エネルギー基本計画」を閣議決定し、11月にはオバマ大統領との会談で、原子力分野での日米協力の推進を確認しました。
東日本大震災による福島原発事故を受け、管首相は「エネルギー基本計画」を「いったん白紙に戻して議論する」と表明しましたが、5月のフランスでの主要8カ国首脳会議で、オバマ大統領を前に「最高度の原子力の安全を実現する」と表明し、原子力発電を今後も続けていくことを国際公約しました。
以上、日本が原発ゼロの道に踏み出すためにも、アメリカ言いなりの政治を変えなくては…!と感じた「原発の源流と日米関係」(赤旗日刊紙記事)でした。