鉄筋の建物以外は津波で流されたりつぶれたり…。
残った鉄筋などの建物も使える状態ではなく、壊すのを待っている様子。
中心部に、ほとんど人は住んでいない。
市営住宅には人がいるのかなぁ?…と思ってみると廃墟に…。
さて、大槌町の赤浜地区の仮設住宅には74世帯もの被災者が身を寄せて生活を始めています。
お米、野菜、洗剤、トイレットペーパー、暖房機器、毛布、食器、衣類、おもちゃ…たくさんの支援物資を並べ、無料の青空市を開催しました。
あっと言う間に、持って行った物資のほとんどが無くなりました。
赤ちゃんをおんぶした若いお母さん、押し車を押した老夫婦…「ありがたいです」「こんなの初めて」「助かりました」等々、たくさんの方に喜んでもらうことができました。
また、相談の中で、「布団が欲しい」との要望もあり、持って行った布団がさっそく役立つことになり、提供して下さった方の笑顔が浮かびました。
その後、地元の方の案内で、津波で町長はじめ課長など亡くなられた大槌町役場へ。
震災時、町長を始めとする町職員幹部らは、災害本部を立ち上げようとし津波に呑み込まれたそうです。
町長以外にも課長クラスの職員が全員行方不明となったため、行政機能が麻痺したため、周囲から孤立したような状況がしばらく続いたとか。
ある若いお母さんは、赤ちゃんを高く抱きかかえた状態で亡くなり、赤ちゃんだけが助かったそうです…。
クチャクチャの車
数日前にオープンした復興食堂
あっと言う間に、持って行った物資のほとんどが無くなりました。
町長以外にも課長クラスの職員が全員行方不明となったため、行政機能が麻痺したため、周囲から孤立したような状況がしばらく続いたとか。
出来たばかりの防災センターには、「災害時は防災センターに避難するように」と日頃から言われていたため200名を超える町人が避難しました。
ところが、津波は2階部分以上にまで達し、2階までしかないこの防災センターに避難した200名を超える町民は、すし詰めの状態で亡くなられました。
ところが、津波は2階部分以上にまで達し、2階までしかないこの防災センターに避難した200名を超える町民は、すし詰めの状態で亡くなられました。
ある若いお母さんは、赤ちゃんを高く抱きかかえた状態で亡くなり、赤ちゃんだけが助かったそうです…。
数日前にオープンした復興食堂
ちなみに…大槌町には、ひょっこりひょうたん島のモデルとなった島があります。
復興を心から願ってやみません。
15日の夕方から雪がチラホラ…16日朝起きるとうっすらと雪が…。
敦賀に到着したのは夜10時頃でした。
ちなみに…放射線の線量計を持って行ったのですが、敦賀を出る頃は0.2マイクロシーベルトだったのが、磐越自動車道を通って福島県に近づくと、どんどん数値が上がり、郡山ジャンクションでは0.83マイクロシーベルトに…。
高速道路では、二本松市付近の放射線量が高いと前々回に岩手に行った夫が言っていたとおり、二本松では最高1.194マイクロシーベルトに…!
1.194マイクロシーベルトとは、1年間、そこで生活すると10.46ミリシーベルト被曝するため、諸外国では退避命令がでる値らしい…。
だけど、日本では、多くの市民が普通の暮らしをしています。
日本の基準の甘さ、そして、こうなってもまだ原発を無くさない日本…考えれば考えるほど、日本政府に腹が立ちます
さて、今回、時間も少なく十分な活動が出来なかったので、次回は、とんぼ返りでなく、二日間は現地でじっくり活動できるよう、最低4日ぐらいは日にちをとってボランティアに行きたいと思います!