今日は、福井市のアオッサで県内の9条の会主催で「2012憲法記念日のつどい」がありました。
講演は福島県9条の会の事務局長、真木實彦氏で「福島は訴える〜憲法から見た原発災害」でした。
お話の要旨は以下の通りです。
原発事故後、200万人の福島県の住民のうち約16万人が避難しているが、多くの住民が、そこに残って住んでいる。
放射能汚染は「見えない」ので、判断に苦しい。
大気からの体外被曝だけでなく、汚染された食物を食べることによる内部被曝の不安も出てきた。
次から次へと問題が出てくるので、混乱が生じている。
10年、20年先の不安が絶えず頭にのしかかりながら、平静を装って生きている。
事故を起こしたのが「福島第1原発」で、「福島」と言うため、人々に与える語感による4次的な被害(風評被害)を受けている。
一時帰宅できるようになったが、帰宅した半数の人が、荒れ果てた街に失望してしまう。
環境は、人間が住んでいるというだけで守られてきた。
双葉郡では、今年の4月から、帰られる時期によって、避難地域を「帰還困難」「居住制限」「避難指示解除準備」の三つに区分することにした。
自分の家が住めれば良いという訳ではなく、インフラ整備が必要。
政府は「帰られない土地を決めなくてはいけない」と言って、半永久的に帰られない、立ち入られない地域を作り、放射性廃棄物の「中間貯蔵施設」を…という提案が出された。
しかし、今までそこに生活していた人をどうするのか、地域の繋がり、学校・教育の問題、健康維持の問題、雇用はどうするのか等々、お金だけでは解決出来ない問題がある。
「熟議民主主義」という言葉があるが、これまでの民主主義では解決できない、少数を大事にすることが求められている。
(熟議民主主義=熟慮し議論する。多数決で決めてごり押ししない)
原発は国策民営化であり、国策だが、営利団体である民間企業・電力会社が経営している。
電力会社は営利団体であるため、国の規制以上のことはコストがかかるからやらない。
国策民営というシステムが、もたれあい体質をつくりあげ、責任の所在を曖昧にしている。
そもそも原発は、アメリカが原発による「核の平和利用」を打ち出した直後にアメリカが行ったビキニ水爆実験で日本の第5福竜丸が被爆をした。
そのため、日本国内で原水爆反対運動が大きく盛り上がり、あわてたアメリカが「核の平和利用」のシンボルとして実験用原子炉の提供を申し出た。
日本で原発を受け入れさせるために、国は「原発安全宣伝」を徹底して展開してきた。
それが「多重防護で守られた原発」という「安全神話」である。
大飯原発の再稼動が問題になっているが、福島原発事故は収束しておらず、原因究明もできていないし、後処理が出来ていない。
「安全」とは言えず、「電力が足りない」「原発が無いと豊かな生活が送れない」と宣伝している。
生きる権利を放棄させられるような状況の中で、それでも再稼動しようとするその裏に何があるのか。
それは、核兵器製造のポテンシャルを保持するためである。
外務省が作成した「わが国の外交政策大綱」には、「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的、技術的ポテンシャルは保持する」とあり、ここに日本の原子力政策の本当の目的がある。
また、自民党石波茂前政調会長は「核の潜在的抑止力を維持するために私は原発をやめるべきとは思いません」と発言している。
核燃料サイクルの確立とプルトニウムの生産能力の保持が、実は、原爆を生産する能力を持つことに通じている。
などなど…。