その後、新婦人50周年のビデをを観て、歌う会に。
歌う会では、小浜のMさんのハーモニカ演奏で歌いました
時間より少し遅れていわき市到着。
伊藤さんに現地を案内して頂き、重い気持ちを引きずりながら、宿泊場所のスパリゾートハワイアンズへ…。
「あまちゃん」で鈴鹿ひろみが、「福島の人に申し訳無い」と気落ちしていた時、「福島の人間が働けって言ってるんです!」ってハルさんが檄を飛ばしていたけど…。
いつまでも、気持ち引きずっていてはハワイアンズで働く人に申し訳無い…と、気持ちを入れ替えて、ショーを楽しみました
2013年09月30日
福島の報告(3/3)…オプション
「福島原発被災地視察ツアー」で、バスの中のレクレーション係を仰せつかり、
往復約16時間の長旅を充実すべく、
まずは、NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」の最終回を見ました。
その後、医療生協のTさんの原発クイズ。
10問中9問正解は金元ゆきえさん
夜、お泊まりするのが映画「フラガール」の舞台となったスパリゾートハワイアンズ
なんでも、3.11以降、経営が苦しいとのことで、支援も兼ねて、ちょっとお高いけど利用することに。
そのため、バスの中で「フラガール」を見ました。
みんな涙、涙…
その後、小浜市議の能登恵子さんから、ドイツ視察のお話をお聞きしました。
ドイツでは、脱原発に切り替えた下地に、前首相、シュレーダーの時に、脱原発のための緻密な計画ができていたから、とのこと。
再生可能エネルギーへの転換を国家プロジェクトとして、公設民営の企業をつかい、国内だけでなく、隣接国へも脱原発の道筋を働きかけているとのこと。
若いお母さん2人が立ち上げた「エネルギーを市民の手に」という団体の話、
また、エコの村では、雇用が10倍になった話、
公平な政治を子どもたちに考えさせる教育など…
とても興味深いお話をお聞きしました。
その後、ハーモニカ演奏を聴いたり、映画「東京原発」を観たり…。
超ハードでしたが…とても有意義な旅行となり、本当に行って良かったです
福島の報告(2/3)…避難生活の方と交流
「福島原発被災地視察ツアー」の二日目は、
早川千枝子さんとの交流です。
早川さんは、事故後、楢葉町からいわき市へ避難しました。
昨年8月に避難指示解除準備区域になり、家に帰れるようになりましたが、
放射線量が高くて、未だに寝起きはできず、仮設住宅で暮らしています。
早川さんのお宅は600年続いた由緒あるお寺ですが、
ご自身は、原発事故以前から、いわき市で障害者施設を運営しています。
昨年の夏、新婦人敦賀支部の「フクシマの声を聴く会」でお呼びし、
話をしていただきました。
ちなみに…夫さんの早川篤雄さんは、
原発問題住民運動全国センターの代表委員で、
今年、福井で開催した「3.11モリアルアクション」で
トーク「フクシマからの訴え」をして下さいまして…お世話になっています。
ツアー参加者から、福井のお米100キロを作業所に寄付しました。
敦賀からも作業所で使うハギレやリボンなどを手渡しました。
早川さんは、「3.11以前と以後について」話をして下さいました。
楢葉町はのんびりとした田舎町。
二世帯、三世帯同居があたりまえ。
川には鮭が産卵のためにいくらでも上ってきた。
原発事故後、施設の障がいをもった12名を連れて、転々と避難した。
精神障害の薬は、医師の処方箋が無いと薬局で薬を出してもらえないため、
処方箋を書いてもらえる医師を捜し回ったが、若い女性は薬が合わず亡くなった。
そのほか…
じん肺でボンベを担いで避難所にたどり着いたのに、力尽きて亡くなった方、
半年の避難生活で亡くなられた透析患者、
楢葉町にいるときは元気に農作業をされていたのに、避難所生活に疲れて
生きる希望を無くして、心が壊れていった方、
たくさんの方が避難生活の中で亡くなられたけど、
楢葉町は立入禁止のため遺骨をお墓にも入れられなかった。
原発事故による関連死は、2013年9月30日現在 1538人になった。
立入禁止の時、一度だけ一人だけ家に帰れる事になった時、
娘さんが代表して家に帰ったら、家が泥棒に荒らされていた。
娘さんは家に張り紙を残して帰ったとのこと。
「こら泥棒! 3月12日、町のみんながどんな思い出この町を離れたのか、分かるか! 仏様が見てるからな!」と。
放射能で汚染されたゴミの借り置き場として自分の田んぼを貸しているが、
放射能汚染を心配し、非難する町の人もいる。
でも、借り置きする場を提供しないと除染が進まない。
3年間だけと言うが、本当にどこかへ持って行くのか?
持って行ったとしても、いままで放射能汚染のゴミを置いていた田んぼで
果たして安全なお米が作れるのか?という不安がある。
いずれ家で暮らせるようになる時のために、家の掃除をしている。
立入禁止の頃に泥棒が入り、戸を閉めずに出ていったため、
小動物の毛や死骸、食べ荒らしたものなどで酷い状況。
プロの掃除屋さんをたのみ、隅々まで掃除してもらうため、処分を始めた。
今まで捨てられなかった家族の思い出の品々…。
70年の人生、嫁いで50年の思い出、自分の生きてきた人生そのもの…
全部、泣きながらゴミ袋に…。
この苦しみ、悲しさを、私たちで最後にしてほしい。
もし、同じような犠牲者が出たら、何の為に私たちはいるのか、
死んでいったみんなは犬死にになってしまう。
子どもや孫たちに、二度と同じ経験はさせてはいけない。
福井の人達に、私たちと同じようなつらさ、苦しさを味合わせてはならない。
そのためにも、大飯原発の再再稼働を許さず、なくして欲しい。
お願いします、と…語られました。
みんな、一緒に涙し、心に刻みました。
昨年から除染が始まり、昨年8月に避難指示解除準備区域になった。
お寺のお墓の除染をしてもらい、檀家の皆さんがお墓参りができるようになった。
子や孫との一家団らん、近所のみなさんと助け合う普通の暮らし、
お米や野菜、お花づくりの歓び、生き甲斐までも奪われてしまった。
長い仮設住宅の中で、継続性、集中力が無くなってきている。
自分の家の裏山の名前すら出てこなくなった。
故郷が欲しい、昔の暮らしを取り戻したいと思いながら暮らしている。
福島の報告(1/3)…広野、楢葉、富岡
28日(土)の朝5時40分敦賀インター集合、6時出発で
新婦人主催の「福島原発被災地視察ツアー」に行ってきました。
私は、バスの中のレクレーション係を仰せつかり、
往復約16時間の長旅を充実すべく、
NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」の最終回を見ることから始まり、
原発クイズ、映画「フラガール」「東京原発」、新婦人50周年のビデオ上映、
歌う会、ハーモニカ演奏…等々、計画をたてて進行しました。
伊藤さん
どこでもあるような電力会社の標語…むなしく感じました。
子どもの未来、奪ったんだよ…?
4時までしか滞在できず、過ぎると警察に尋問されるとか。
急いで、これらの町を後にしました。
予定より30分遅れて福島県いわき市に到着。
いわき市在住、原発問題住民運動全国センター筆頭代表、伊藤達也さんの案内で、
事故を起こした福島第一原発の立地自治体の楢葉町、富岡町、
隣接自治体の広野町に視察に行きました。
まず、いわき市を出発して広野町へ。
ここは、伊藤さん曰く「人の戻らない町」。
広野町は福島第1原発の30キロ圏内、第2原発から20キロ圏内にあります。
人口は約5000人の町です。
原発事故後、「緊急時避難準備区域」に指定され、全町民が避難しました。
その後、その年の9月30日に解除され、いたるところで除染が行われましたが、
住民は2割しか戻って来ていない、とのこと。
ところが、避難して帰ってこない8割の住民と同じ数ほど、
事故処理や除染をする作業員が住んでいるので、人口は減っていないそうです。
津波で多くの家がながされ、今は、家の基礎だけが残ります。
かつて賑やかだった商店街
広野駅。
これより東、原ノ町駅までは原発事故の影響により運転休止。
ここから東へ延びる線路には草が生い茂っていました。
いたるところに警察官。
パトカーは「練馬」ナンバーでした。
遠い所では、「山口」のナンバーもあるそうで、総動員です。
「Jブリッジ」…東電などが出資してできた130億円のサッカーの施設。
事故後、全面閉鎖し、サッカー場の芝をはがし、作業員の寄宿舎を建てたり、
彼らを送迎するバスの駐車場になっていました。
宿舎が建っているサッカー場
バス停留所になったサッカー場
除染を始めましたが、二年半も家を空けていないと、家の中は湿気でカビだらけ。
小動物の毛や死骸で大変だそうです。
常磐線は、現在、広野駅が終着。
現在、運転を再開すべく、レールの除染をしているとのこと。
でも、問題は、砂利の汚染だそうです。
大量の砂利を入れ替えても、その汚染された砂利をどこへ持って行くのか
問題は山積みです。
次に…楢葉町へ。
ここは福島第1原発の20キロ圏内です。
伊藤さん曰く「除染の町」。イノブタが増えているそうな…。
家はあるけど人影はなし…
除染で出る放射線で汚染されたゴミ、残土、草などは黒い袋に詰めて、3年間、借り置きするそうです。
袋は5年間もつそうですが…3年後、いったいどこへ持って行くのか?
まったく見通しはありません。
昨年8月、避難指示解除準備区域になり、町へ入れるようになりましたが、
放射線量が高くて、実際町内に行けるのは、午前9時から午後4時まで。
泊ることは許されていません。
暮らすことができない町で、人の気配はありません。
荒れ放題の町
道の駅「ならは」は温泉付きだそうですが、
今は、双葉警察署の臨時庁舎になっています。
最後に、富岡町です。
ここは、伊藤さん曰く「2年半前から時計が止まった町」。
またもや警察官。
この橋の向こうが、福島第二原発です。
事故を起こした第一原発から10キロの場所。
富岡町でも除染作業が行われていました。
草だらけです。
富岡駅前の商店街。
津波が来た時間に時計が止まっていました。
原発事故さえなかったら、とっくに、他の町のように復興をすすめることができるのに…この町だけ、2年半前のまま。
胸が詰まって…辛くなりました。
富岡駅。
かつての富岡駅の姿は想像もできません。Wikipediaでどうぞ…。
かつては、この駅の向こうにも多くの店や住宅がありましたが…
みんな津波でながされてしまいました。
かつては「スーパーひたち」も停まっていたのに…。
草が生い茂り、見えにくくなっていますが、
たくさんの車が、津波でながされ転がっていました。