今日は、市内各地で
いろんな催し物が開催されています。
それぞれ顔を出すには、時間配分が大切❗️
と言うことで、手帳と睨めっこしながら、
まず…
前の晩から泊まりに来ていた孫ちゃんを
家に送って、会議に出席。
午前中の会議が終わった後、
大急ぎで金ヶ崎緑地へ。
年に数回しか敦賀に来ないクレープ屋さんが
金ケ崎緑地の休憩所に来るとの情報あり…
いつも売り切れで、食べれたことなくて、
今回こそは!と思って行ったのに…
まだ、12時なのにすでに売り切れ💦
休憩所では、木工製品やアクセサリー、
コーヒー豆の販売してました。
ここのパン屋も売り切れでした😓
せっかくなので、休憩所前で出店?していた
野坂のコーヒー屋さんのコーヒー飲みながら、
ベンチに座ってひなたぼっこ💓
お昼ご飯の時間になり、
昨日から、きらめきみなと館で開催している
福丼県フェスへ。
すでに売り切れたのもあれば、
長い行列できてるのもあり…
時間無いし、誰も並んでない鯖の混ぜご飯食べました。
期待してなかったけど…←ごめんなさい😅
とても美味しかったです💓
その後、今日の私の中のメインイベントである
図書館フェスへ。
郷土資料紹介講座まで少し時間があったので、
プラザ万象で開催中の古本市をウロウロ。
ステキな家事の本買いました。
その後、郷土資料紹介講座
「敦賀聯隊と地域社会〜軍隊を受容する社会を考える」
を聞きに行きました。
題名から、自衛隊の誘致の話がある中、
どのような立場で話をするのか、興味津々。
講師は、敦賀市の学芸員さん。
中身は、資料に基づいた
なかなか、普段聞けない貴重なお話でした。
明治6年に出された徴兵令は、
戸主は免除されるなど免除規定があり、
わざと逃れるために養子縁組して
戸主になる人もいたので、
大日本帝国憲法で、徴兵が義務化された。
徴兵検査は自治体の仕事であった。
徴兵制といっても、定数が決まっているため、
入営は抽選で当たった人だけ。
当たらない人の方が多く、
徴兵検査で甲種と審査されると自慢でき、
ステータスとなり、その後の生活にも影響した。
兵営の生活は自由がなく、
更に、残酷なしごきなどあり過酷だった。
1番の楽しみは食事。
おかずは切り干し大根など粗末なものだったが、
それまでの暮らしでは食べられなかった
白米が食べられるのは嬉しいことだった。
敦賀聯隊は、1898(明治31)年に名古屋から移転。
大和田荘七が誘致を求め嘆願書を提出、
自己所有地を陸軍に献納するなど、積極的に運動した。
敦賀選出の県会議員、片山政治郎も、
誘致の陳情書を提出し、
土地買収の交渉に協力することを主張。
莇生野区長の竹中竹右衛門らが価格交渉し、
兵営設置が決定。
用地買収で得た代金で
「陸軍用達」を目的とした会社ができた。
ところが、経営悪化でわずか6年で解散。
その原因は、聯隊前に商店がいくつもできたことや
陸軍用達商人がいたため。
聯隊前の商店への経済効果は
現在の18億円にものぼり、
昭和6年、聯隊移転計画が話題になった時、
敦賀郡町村あげて存知運動が展開された。
一方、連隊の誘致によって耕作地が減少し、
粟野村の住民の生活を圧迫した。
また、大正期は、第一次世界大戦後の軍縮や
民主化機運の高まりで対軍感情は悪化していた。
徴兵忌避者は年間1000人を超え、
敦賀でも、逃亡後捕まった人も。
また、酒で酩酊状態となった兵士が
住民とトラブルとなり
暴力沙汰になったため連隊は厳しく処分した。
敦賀聯隊の存知が決定した時の連隊長は発言によると…
「敦賀の対軍感情が従来通り
良好の関係であったとは言い難い」
「今後一層軍隊対地方の関係を
うまくやって行きたい」と、地域に気を遣っていた。
そのため、大正15年から父兄会をやったり、
敦賀婦人会の営内見学をやったり、
活動写真会をして家族や付近の人にも公開ふるなど、
融和策に力を入れ、対軍感情の悪化を防いだ…等。
図書館にある本で、
これらのことが分かるそうで…すごいですね。
実は、私の夫の父親は、
三重から志願か徴兵か?で敦賀連隊に。
そこで夫の母と知り合い結婚しました。
もう亡くなってますが、
あまり話は聞いたことなかったし、
勉強になりました。
その後、クイズラリーに参加し、
可愛いイラストのクリアファイルをもらいました💓
夜の会議まで時間があったので、
土日しかやっていない喫茶店で
のんびりFacebookに今日の一日を投稿して
家に帰って晩ご飯を作って夜の会議に。
思ったよりのんびりと楽しめた充実した一日でした。