大阪で結婚して、私が生まれたけど…
当時の大阪は公害がひどく、
私はしょっちゅう、
喉を腫らして熱を出していました。
父親は、長距離トラックの運転手で
コンビナートで働いていましたが、
当時、労働組合の委員長だった父は
会社が、組合の部屋に
盗聴器を仕掛けたことを発見し、
暴露したため、会社をクビになってしまいました。
私が5歳の時です。
解雇された父は、裁判に訴えました。
そして、解雇撤回闘争をしながら、
生活のためアルバイトをしながら、
公害反対の署名運動を始め…
母も「お父さんだけにまかせてたらあかん」と
署名集めるようになり…
私も、母が署名を書いてもらっている間に、
次の家の玄関ドアを叩き
「公害反対の署名をお願いします」と
言ってまわり、お手伝い。
それが、私の活動家としてのスタート?
父は、解雇された後、
相談に行った組合(同盟系)からも見放され、
解雇撤回闘争でお世話になった弁護士が
のちに日本共産党の国会議員となった荒木宏さんで
それまで自民党支持者だった父は
「共産党こそ、働く者の味方」と180度転換。
職場復帰を勝ち取った父は、
運輸一般という組合の執行役員になりました。
地域の労働争議には駆けつけて支援するなど、
労働者の権利を守る活動家になりました。
親からは、いろんなことを教わりました。
日本共産党は、戦争のない平和な社会、
男女平等の社会、貧富の差のない平等な社会を
めざしているんだよ、と。
日本共産党に「日本」がつくは、
中国やソ連の共産党とは違うからだよ、と。
中国共産党やソ連共産党が、
日本共産党に暴力革命を押しつけようと
それぞれの党からスパイまで送りまれ、
日本共産党は何度も分裂の危機に陥り…
必死に、自主独立の党として、
干渉と闘ってきた歴史がある、と知ったのは
日本共産党に入ってからでしたが…。
ちなみに、私は18歳で日本共産党に入りました。
子どもの頃、有事立法が浮上し…
家の周辺を「愛する夫や子どもを戦場に送らないため
有事立法に反対しましょう」と呼びかける宣伝カーが
走っていました。
そのため、平和は努力をしないと守れない、
という思いがずっとあって…
子どもの頃、見た赤旗に
「18歳で入党しました」との記事があり、
「私も18歳になったら入党したい」と。
まさか…
市会議員になるとは思ってなかったけど…💧
私の目の黒いうちに社会は変わらなくても
いつか、孫か曾孫の時代には
日本共産党がめざす社会、
戦争のない平和な日本、男女平等の社会、
貧富の差のない、みんなが豊かで平等で自由な
社会がくると良いなぁ〜と活動続けて39年。
でも、良くなるどころか、
世の中は逆方向に変わってきてて…
のんきに?活動してる場合じゃない💧
アメリカと一緒に戦争ができる国になって
憲法まで変えられようとしている…💦
参議院選挙、投票日まで残り3日…
悔いの無い闘いをしなくては〜がんばります💨
昔の写真が出てきました。
1993年の日本原電3、4号機の増設について
住民投票条例を求める署名運動の時の写真。
29年前だから…29歳の時のもの?
仕事の合間に軒並み、署名を集めてまわり、
日曜日は、保育所が休みのため、
2人の子どもの手を引いて、署名集め。
母親と同じこと、してるなぁ〜😃💧
そして、限られた短い期間で
1万2000筆もの署名が集まったのに
敦賀市議会ではいとも簡単に不採択に…。
市民の願いが届かない議会に
怒りと失望を感じました。
そして、1999年に日本共産党の奥山市議が
県議選に挑戦することになり
代わりに市議選に出て欲しいとの党の依頼があり…
子どももまだ小学生。
授業中に手を上げることもできなかった
私に務まるのか?との不安もあり、
悩みに悩み…
でも、市民の願いが届く市議会に変えたい!と決意。
そして34歳で初当選…で、現在24年目…
未だに日本共産党議員団が紹介議員になった
請願が通ることはないけど…😞💧
でも、賛同してくれる議員さんが、
ポツリポツリ…って、これだけでも進歩!
いつか、変えられる時が来ると信じて
選挙も、議会もがんばり続けたいと思います。