今日は8月8日。
77年前の今日午前9時10分頃、
東洋紡績敦賀工場に
8月9日に長崎に投下された原爆の
模擬原爆「パンプキン」が落とされました。
被害は…というと、
負傷者76人、被災者503人で
33人が亡くなられたそうです。
亡くなられた中には、
学徒動員で来ていた
旧制敦賀中学校生徒5人、
旧制敦賀高等女学校生徒11人が含まれています。
尊い命を奪い、若者の未来を奪った模擬原爆。
長崎のように核が積まれていれば…と
想像するとゾッとします。
6月議会に、
核兵器禁止条約の参加を政府に求める請願が出され、
賛成少数(3人だけ)で不採択となりましたが…
あらためて、日本政府に条約参加を求めてなくては
と思います。
☆ ☆ ☆
さて、今日は実は、父の命日でもあって…
5年前、私が長崎で開催されていた
原水爆禁止世界大会に参加中、
父は亡くなりました。
長崎の平戸で地主の長男として生まれ…
戦後は貧乏な暮らしを支え、
腰が悪くて農家を継げず、
大阪に出て長距離トラックの運転手をしながら
親の借金を返してきました。
幼なじみの母と大阪で結婚し、私が生まれました。
当時、ベトナム戦争の最中…
父の会社が、車を改造して
運転手にも知らされない極秘の猛毒を運ばされていて
これは枯れ葉剤ではないか?との疑いも。
正義感の強い父は、このことを問題にしたところ
会社から組合の部屋に盗聴器をしかけられ、
それを見つけた父は、組合の大会で告発。
父は会社を首になり、解雇撤回を求め裁判に。
当時は公害がひどく、私はしょっちゅう
扁桃腺をはらして高熱を出していて…
父は、生活を支えるためアルバイトをしながら、
自身の解雇撤回の裁判をしながら、
公害反対の署名を集める運動に参加。
1年後、無事に会社に復帰し、
その後は労働組合運動に邁進しました。
でも…祖父が病で余命わずかと知り、
私の小学校卒業と同時に一家で平戸へ。
祖父はその後、すぐに亡くなりました。
農家は弟が継いでいて、
小さな島で父の働けるところはなく…
結局、父は出稼ぎに行くようになり、
私が高校を卒業した1年後、
再び、一家は大阪に戻りました。
定年退職まで、長距離トラックの運転手をし
退職と同時に私の選挙。
半年ほど、私の家で暮らし、
私の子どもの面倒や家のことをしてくれました。
父の人生から、たくさんのことを学びました。
お酒が好きで、楽しいことが好きで…
父の良い面も悪い面も、
しっかり引き継いでるなぁと我ながら思います。
父を偲びながら、献杯。