幕末の1855年に、日本とロシアが
初めて国境線を取り決めた日で…
毎年、2月7日に
「北方領土返還要求全国大会」が
開催されています。
今年の大会では、
石破茂首相はビデオメッセージで、
「領土問題を解決し、平和条約を
締結する方針を堅持する」と述べましたが、
日ロ交渉の再開は言及しませんでした。
また、「わが国固有の領土」
「北方四島の帰属問題の解決」の文言もなく…
いずれも、自公政権が2018年に、
「4島返還」から「2島返還」に転換して以降、
用いられなくなっています。
大会では、日本共産党からは、
紙智子参議院議員が出席し、
プーチン政権が、
日本が、ウクライナ侵略を非難していることで、
領土問題を含む平和条約締結交渉を
中断していることを批判し、
ロシアの覇権主義を許さず、
「領土不拡大」の原則に反した
ヤルタ協定やサンフランシスコ条約による
戦後処理の不公正をただすべき、と訴え、
択捉・国後をはじめ、全千島列島返還のため
力を尽くすと表明しました。
さて、ここで、
あらためて、北方領土の経緯をおさらいすると…

《1855年(江戸時代)》
「日魯通好条約」で、
日本とロシアの国境線が、
択捉島と得撫島の間に決められた。
↑
南千島が日本領に確定
《1875年(明治8年)》
「樺太・千島交換条約」で、
日本は樺太を放棄するかわりに
ロシアから千島列島を譲り受けた。
↑
北千島も日本領に確定
《1905(明治38)年》
日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」で
北緯50度以南の南樺太が日本領となった。
《1945(昭和20)年》
2月 米、英、ソの「ヤルタ会談」で
米英が、ソ連の日本参戦と引き換えに、
ソ連に千島列島を引き渡すことを認めた。
8月15日終戦後 ソ連軍、占領を開始
《1951(昭和26)年》
「サンフランシスコ条約」で、
日本は、千島列島を放棄。
日本政府は条約を締結したあとの国会で、
外務省の条約局長の答弁で、
放棄する千島列島について
択捉島、国後島も含まれると表明。
国交正常化交渉にはいると、
国後島・択捉島は千島列島には含まれない、
ソ連に対し国後・択捉・歯舞・色丹の
4島の返還を求めるという立場をとる。
《1956(昭和31)年》
「日ソ共同宣言」のさい、
ソ連は、歯舞、色丹の「引き渡し」で
日ソ間の領土問題を終結させる態度をとる。
《2018(平成30)年》
安倍首相が「日ロ共同宣言」を基礎に、
「4島返還」から「2島返還」へ態度を転換。
というものですが…
そもそも、ソ連は、
戦争による領土拡大は認めないとする
1941年の「大西洋憲章」に
アメリカ、イギリスとともに参加しています。
なのに、領土拡大をするため、
北方領土に侵攻したわけで…
こうした、ヤルタ会談や、
サンフランシスコ条約による戦後処理の
不公正は正されるべきであり、
日本共産党は、党の綱領にも
「日本の歴史的領土である千島列島と
歯舞諸島・色丹島の返還をめざす」と
明記しています。
毎回の国政選挙の政策にも入っています。
(↑ ホームページ参照)
戦争によって、故郷を追われたみなさまの
ご苦労、無念はいかばかりか…
日本政府には、ぜひとも
プーチン政権の覇権主義を許さない立場で、
千島の返還を求めていただきたいものです。