2012年08月12日
「福島の声を聴く会」
11日、あいあいプラザにて「福島の声を聴く会」を開催しました。
午後1時に会場集合。
会場づくりをした後、集会で歌う合唱3曲を実行委員みんなで練習していると、つぎつぎと入場者が…。
あわてて練習を終え、受付に…(私が受付係)。
集会の開会時間2時になり、あいさつ等々終わり、合唱の時間になっても次々と見える参加者…。
受付を他の方に変わってもらって合唱のステージへ。
「心つなごう」「私のこどもたちへ」「停まった」を発表しました。
泣いてしまいそうなのをこらえて、明るく前向きな思いで歌いました。
さて、肝心の早川千枝子さんのお話は、初めのほうは廊下の受付にいたのと、その後も出たり入ったりで充分に聴けなかったのですが…要旨を以下に紹介します。
楢葉町の知的障害者と精神障害者の作業所をやっていたが、原発事故で警戒区域となり、避難生活を余儀なくされた。
母は、家に帰ることもできず避難先で亡くなった。
精神障がいをもつ人達は、薬が無くなり大変だった。
薬が合わず亡くなった人もいる。
次々にまわりの人が亡くなっていったが、お葬式をすることも納骨をすることもできなかった。
明るく元気に活動されていた方が、避難所生活がつらく、うつになり一時帰宅の時に自宅で自殺してしまった。
酪農家や農業の方なども自殺された。
電力会社は「放射能で亡くなった人はいない」と言っているが、福島の人にはつらくて聞かせられない。
荒れ果てた田んぼ、子どものいない公園、草だらけの線路…敦賀の町から誰もいなくなる光景を想像できますか?
昨日(10日)から自由に帰れるようになったが、未だに放射能が高くて、住むことはできない。
受け継いできた産業、農業や漁業が次の世代に渡せない。
原発の交付金でサッカー場や野球場、800人入るコミュニティホール(かつて800人満席になったことはない)など次々作ってきた。
これから、若い人は帰ることはないだろう。
車に乗れない高齢者は、病院もお店もない町に帰れない。
帰れるようになったとしても、60代、70代の人しか帰らないし、誰もサッカーなんてやらない。
家族がバラバラにされてしまった。
事故後、全国何処でも「ふるさと」が歌われるようになったが、私はつらくて、「ふるさと」を聞くことも歌うこともできない。
みなさんは、この美しい自然、空気を大事に守っていって下さい。
こういうことは福島で最後にして下さい。
お話の後、質問や感想が出されました。
最後に、「心ひとつに」を会場のみなさんと一緒に歌って終わりました。
100名を超える方が参加して下さり、とてもすばらしい集会になったと思います。
集会後、舞崎町の喫茶「珈夢」で交流会をしました。
若い方の「私たちに何ができますか?」との質問に、早川さんは「私たちが一番望んでいることは、除染をして欲しいと言うことです。除染がされないために家に帰れない。だけど、みなさんにお願いはできません。みなさんにお願いできることは、福島を悪いお手本にして、原発を無くして欲しい。あっちでも停まった、こっちでも無くなったと聞くと私たちは励まされます」と…。
交流会でも涙、涙…。
本当にすばらしい取り組みに参加させて頂いて良かったです。
ひとつ、反省しているのは…連絡先が私の携帯だったのですが、当日、バタバタしていて電話に気づかず、会場が分からなくて参加をあきらめた方がおられて…ほんとうに申し訳無いことをしました。
この場をおかりして、お詫び申し上げます。