早川さんは、事故後、楢葉町からいわき市へ避難しました。
昨年8月に避難指示解除準備区域になり、家に帰れるようになりましたが、
放射線量が高くて、未だに寝起きはできず、仮設住宅で暮らしています。
早川さんのお宅は600年続いた由緒あるお寺ですが、
ご自身は、原発事故以前から、いわき市で障害者施設を運営しています。
昨年の夏、新婦人敦賀支部の「フクシマの声を聴く会」でお呼びし、
話をしていただきました。
ちなみに…夫さんの早川篤雄さんは、
原発問題住民運動全国センターの代表委員で、
今年、福井で開催した「3.11モリアルアクション」で
トーク「フクシマからの訴え」をして下さいまして…お世話になっています。
ツアー参加者から、福井のお米100キロを作業所に寄付しました。
敦賀からも作業所で使うハギレやリボンなどを手渡しました。
早川さんは、「3.11以前と以後について」話をして下さいました。
楢葉町はのんびりとした田舎町。
二世帯、三世帯同居があたりまえ。
川には鮭が産卵のためにいくらでも上ってきた。
原発事故後、施設の障がいをもった12名を連れて、転々と避難した。
精神障害の薬は、医師の処方箋が無いと薬局で薬を出してもらえないため、
処方箋を書いてもらえる医師を捜し回ったが、若い女性は薬が合わず亡くなった。
そのほか…
じん肺でボンベを担いで避難所にたどり着いたのに、力尽きて亡くなった方、
半年の避難生活で亡くなられた透析患者、
楢葉町にいるときは元気に農作業をされていたのに、避難所生活に疲れて
生きる希望を無くして、心が壊れていった方、
たくさんの方が避難生活の中で亡くなられたけど、
楢葉町は立入禁止のため遺骨をお墓にも入れられなかった。
原発事故による関連死は、2013年9月30日現在 1538人になった。
立入禁止の時、一度だけ一人だけ家に帰れる事になった時、
娘さんが代表して家に帰ったら、家が泥棒に荒らされていた。
娘さんは家に張り紙を残して帰ったとのこと。
「こら泥棒! 3月12日、町のみんながどんな思い出この町を離れたのか、分かるか! 仏様が見てるからな!」と。
放射能で汚染されたゴミの借り置き場として自分の田んぼを貸しているが、
放射能汚染を心配し、非難する町の人もいる。
でも、借り置きする場を提供しないと除染が進まない。
3年間だけと言うが、本当にどこかへ持って行くのか?
持って行ったとしても、いままで放射能汚染のゴミを置いていた田んぼで
果たして安全なお米が作れるのか?という不安がある。
いずれ家で暮らせるようになる時のために、家の掃除をしている。
立入禁止の頃に泥棒が入り、戸を閉めずに出ていったため、
小動物の毛や死骸、食べ荒らしたものなどで酷い状況。
プロの掃除屋さんをたのみ、隅々まで掃除してもらうため、処分を始めた。
今まで捨てられなかった家族の思い出の品々…。
70年の人生、嫁いで50年の思い出、自分の生きてきた人生そのもの…
全部、泣きながらゴミ袋に…。
この苦しみ、悲しさを、私たちで最後にしてほしい。
もし、同じような犠牲者が出たら、何の為に私たちはいるのか、
死んでいったみんなは犬死にになってしまう。
子どもや孫たちに、二度と同じ経験はさせてはいけない。
福井の人達に、私たちと同じようなつらさ、苦しさを味合わせてはならない。
そのためにも、大飯原発の再再稼働を許さず、なくして欲しい。
お願いします、と…語られました。
みんな、一緒に涙し、心に刻みました。
昨年から除染が始まり、昨年8月に避難指示解除準備区域になった。
お寺のお墓の除染をしてもらい、檀家の皆さんがお墓参りができるようになった。
子や孫との一家団らん、近所のみなさんと助け合う普通の暮らし、
お米や野菜、お花づくりの歓び、生き甲斐までも奪われてしまった。
長い仮設住宅の中で、継続性、集中力が無くなってきている。
自分の家の裏山の名前すら出てこなくなった。
故郷が欲しい、昔の暮らしを取り戻したいと思いながら暮らしている。